天に手を、古に舞う

何度目かの清兵衛ブログ

ライブ告知

1/11(水) 神戸ART HOUSE

1/12(木)日本橋BEATLE

1/15(日)三宮キングスクロスベース

隙間の童子

以下、奥羽風土の民俗学(著 廣高 兒升)から引用

ひとえに座敷わらしと言っても、各地の伝承の内容は異なる。 近年では、比較的友好的な妖怪、家屋内に存在するだけで、富を得られるような共通の認識であるが、その原点は、江戸後期に出版された「妖怪見聞録」著 前崎佐衛門 による影響が大きい。 例えば、奥羽の一部では以下のような伝わりかたをしている。 ここでは、「隙間の童子」として分けて語ろう。

隙間の童子は、赤子を神隠しに会わせる妖怪とされる。 家屋の障子や襖を閉め忘れた隙間にしか存在できない。 隙間の近くに赤子がいると、連れ去ってしまう。 しかし、隙間にしか存在出来ぬゆえに、童子が隙間から出るとたちまち存在が消えて死んでしまう。

このような存在を模してこんなわらべうたが残されている。

てんてんてんとて 歌う童は 障子の影しか 生きられぬ りゃんりゃんりゃんとて 笑う童は 隙間の世界に いざのうて 儚き命を 悟りして どちらを摘むも お前次第

赤子が興味を持って手を出せば、隙間の世界に連れていかれることがあり、 赤子が手を出さなければ、連れていこうと隙間から出てきた隙間の童子は死んでしまう。 そんな皮肉を込めた歌なのだろうか。

さて、ここまで話を進めればわかることだが、奥羽のような北国ならではの妖怪伝聞と呼べるのではないか。 例えば暖など火を起こすしかなかった時代、真冬に赤子を隙間の空いた場所に放置してしまえば、流れ込む冷気でたちまち赤子は凍え死んでしまう。 自分の過失で子を亡くした親には、神隠しにあったと嘘で、遺体を隠して逃げる例もあったかもしれない。 何にせよ、戸締まりはしっかりとせねばならぬという教訓が含まれた話ではなかろうか。

。。。ところで。 もし、このような座敷童子が本当に存在していたとして、なぜ死んでしまうのに、わざわざ隙間から出てくるのだろうか。

人の理を超えた存在に、理屈を説くのは粋ではないため、これ以上は語らない。

唐傘売り

「かさぁ、いらんかね」

僕の降りる駅には、珍しく傘売りがいる。

身なりは良くはないが、好好爺という言葉がピッタリなじいさんだ。

傘がコンビニでも買えてしまう世の中で、傘売りが商売として成り立つのかと思うだろう。

不幸にも僕が降りる駅は、ど田舎の無人駅であり、降りてもやっているのかわからない喫茶店が一軒あるだけの辺鄙なところである。

確かに傘を売れば少し高くとも買うかもしれない。

ところが、その傘売りはわざわざ自作と思われる唐傘を売っているのだ。

一度他人が交渉しているところに出くわしたことがあるが、数万という言葉が出ていた。

コンビニで数百円で傘が買える時代に、数万出して一時の雨を凌ぐ輩はいるのだろうか。 (この駅から最寄りのコンビニは40分かかるが)

いくらなんでも足元を見すぎであろう、とそれ以降、唐傘売りに悪い印象を持つようになった。

ところで、僕は、降りた後に必ず駅前の喫茶店に寄ることにしている。

いかにも田舎の個人経営という喫茶店ではあるが、静かに本を読む場所として気に入っているのだ。

そこで、気づいたことがある。

唐傘売りは、雨が降る「前」に現れるのだ。

そりゃあ、一度や二度であれば、天気予報を見て予想したのであろう、そう思うであろう。

「それ」に気づいてから、一年、計14回、必ず唐傘売りが来てから10分以内に雨が降る。

一度たりとも、降らないことがないのだ。

回数を数える内に、とにかく気になってしまった。

思い返せば、確かに降ってないとき、もしくは帰り道に降らないときに唐傘売りは駅に来ない。

いくら有能な天気予報しと言えども、衛星画像と各地の気圧計から今後の天気を割り出すしかない。

ある地点を10分以内に雨が降るかどうかを必ず判断出来る術があるのだろうか。

いてもたってもいれなくなった僕は、唐傘売りに尋ねたが、返ってきた言葉はこうだった。

「かさぁ、いらんかね」

あぁ、話が通じないのかと思い、流れ作業のように唐傘を買うことになった。

痛い出費ではあるが、何か謎を解く鍵になるかと思い、自分を慰めた。

希薄な自己

あぁ、そうなんだよ。

よく言われるけど、オレさ、自分に興味があんまり無いみたいなんだよね。

いつのまにか怪我したりしてるんだけど、その時は、ああ怪我したか、と思うくらいでさ、 あとで傷跡に気づいて、あれ、この傷なんだっけっておもったりするんだ。

よくさ、強い人間とか、弱い人間って言葉が使われるけどさ、 あれって自分に興味を持てない人が強い人間って言われるんじゃぁないかな。

オレはそう思うよ。

お前みたいに臨床のような、目に見えないもんよりも、外科医を選んだのも、オレはそうだったのかな。

あんまり見た目や数値にならんもんはいけすかねぇんだよな。

さっき、お前は希薄な自己の持ち主だって表現してたけど、そうだな。

希薄なんだ。

いい表現かもな。

自分に自信がないって言えるやつなんかは、まだ自分に興味があるから言えるんだ。

ある意味そんな自分が好きなんだな。

でも、自分に興味のない、いや、強い人間と言おうか。

強い人間は、弱い人間よりもその部分が圧倒的に欠落してると言えるな。

でも、そんな強い人間だって弱い人間と同じくらい沢山いるんじゃあないかね。

情報を知ったかぶりしなきゃあ生きてけねぇ世の中だ。

自分の優先順位は下がっていくんじゃないかい。

そうなったら、決まりきった会話ばかりで、なんだかロボットと会話してるみてぇになるのかな、はは。

タバコとメロン

今日話すのは彼の話。

彼の部屋には、いくつかの必要最低限の生活必需品しかない。

その部屋の中で、真ん中にある背の高いテーブルが唯一特色を感じるもの。

テーブルの上には必ずメロンと灰皿が置いてある。

オレはタバコとメロンさえあれば生きてい行けると言う。

変だと思う。

メロンは、食べるわけじゃないから当然腐っていく。

灰皿が一杯になるのと、メロンが腐る周期が全く一緒なことが粋だと言う。

彼が部屋でする事と言えば、タバコを吸うこと、メロンを眺めること、 あとはメロンの網目をなぞってみたり、メロンの絵を 描いてみたり。

そんな彼は先月どこかへふっと消えてしまった。

消える前、しきりに「メロンは地球だったんだ」と友達に言っていたらしい。

その友達も彼の話を理解できなかったんだ。 到底私に理解できる由もなし。

地球とメロンの何が似ていたのだろうか。

言には魂

「体は大丈夫だろうか」

え?風邪なの?

「ううん、どうも調子が悪い」

最近寝不足だからじゃない?

「今日は早く寝るとしようか」

そうしなよ

「しかしまぁ、今日も疲れたよ」

残業続きだものね

「ああ、本読まなきゃ」

明日でいいでしょ。ねなよ。

「あー、明日でいいや」

そうそう

「おやすみなさい」

おやすみなさい

 

枯橙画の話

枯橙画という物をご存知だろうか。

大抵は掛け軸の形で描かれる絵である。

そのほとんどが、大国である曹の一部の時代のものしか残っておらず、 それ以前も以後もほとんど描かれていない。

近代では、おおかた、物好きの美大生が興味をもって真似て見る程度である。

枯橙画は、油絵のようなザラザラした顔料で、その名の通り橙色を基調とした絵画である。

ザラザラとしている表面は、恐らく顔料に枯葉が混ぜられて使用されているとされ、 絵によっては羽毛のようなものが混ぜられている。

  もっとも特色的な部分は、必ず左下から真ん中の辺りにかけて筆を寝かせたような線が描かれ、 その回りにまるで炎がもゆるように赤みがかった色が重なる。

絵によっては、所々に緑の点描や、上部に紺色の下地が塗られている場合もあるが、 概ね同じ構図である点が共通している。

印象派を描いていた19世紀の画家からすれば、さすが四千年の歴史を持つ国であると言えよう。

  しかし、なぜごく短い時期に、それも広い国土そこかしこで (現在見つかっているもので256点ある。これは、一人の画家が書いた絵ではないことの証明になろう) 描かれているのかは未だわかっていない。

ただ、なぜこのような構図で上記のような統一された描かれ方をされたのかは、以下のような逸話がある。

********************************   曹より200年以上前の恵の時代、李殖という青年が生きていた。

李殖は、家庭のため官願を目指してはいたのだが、ある時、ぱったりと目指すことをやめ、家出同然で旅に出てしまった。

数年たち、家に帰ってきた李殖は小さな雀を連れていた。

李殖は雀に桔梗と名付け、非常に可愛がっていた。

可愛がるだけならよいが、四六時中桔梗に話しかけていた。

家族や友人が、心配になり、李殖に話しかけても、億劫そうに答えるばかりで、ずっと話しかけ続けている。

不思議なのは、まるで李殖が話しかけているとき、キヨウキヨウと、まるで頷くように鳴くことだった。

家族がオロオロとしている内に、やはりというか、所詮雀。

数日たつとポックリと死んでしまった。

李殖は大層落ち込んでいたが、その晩の内に寝ずに絵を書き上げた。

顔料は全て桔梗の体を使い、木の枝を書いたと言う。

驚いた家族がなぜと問うと、桔梗がそうしてくれと言ったと答えそうだ。

************************************

以上が、枯橙画にまつわる逸話である。     当然この男は、心の拠り所をか弱い雀に求め、依存していただけなのである。

現代22世紀に生きる我々は、こういった偽善心が雀たちを絶滅させてしまったということを学んでいる。

今や雀の剥製を見れるのは博物館くらいだが、21世紀初頭は普通に町中で見れた動物だ。

人間はこうやって学習していく生き物だ。

動物を人間の尺度で捉えることは偽善でしかないのだ。

しかし、時折こういった現実に虚しさを覚えるのは何故だろうか。