天に手を、古に舞う

何度目かの清兵衛ブログ

切り絵と旅する

 

額にはふつと水滴が出ては流れていく。
背はじとりと湿り気を増していき、気分が落ちる。
ぐっと気温も下がってきた時分であるにも関わらず、息は上がり足取りも重くなる。
---もう少し荷物を減らせばよかったかのう
草鞋(ぞうり)ではなく、気取って大きさの合わない革靴を履いてきたが、中には土が入り込み、
足袋(たび)は斑模様(まだらもよう)が東京などではハイカラに映るやもしれぬ。
さて、あとどのくらいと上を見上げると、天上る道かと見紛うほどに長く続く坂道は、
足の運びを遅くする。
幾分からか、足元だけを見つめて上る様は、我ながら滑稽(こっけい)な様(さま)であろう。
---もう少し道なりで山小屋があるはず
ここ、霊感あらたかな山寺へと上り始めたのは、数刻は前のことであった。
用があるのは山寺ではあったが、思い立ったが吉日の精神から登り始めたのは、
なんと日が沈む少し前、酉の刻半ばほどである。
多少暗くなりとも、手元の行灯と持ち前の根性で何とかなると甘い考えをしていたが、
引き返そうと弱気を思ったころには手遅れだった。
気が付いてみれば登山時間のほとんどが暗闇安行(くらやみあんぎょう)である。
燃料も心配になり、道は遠のくが近くにあると聞く山小屋を目指すことにしたのだ。
---しかし、、、、
---さすがにこの雰囲気は無気味と思う
行灯(あんどん)のおかげで手元は見えるが、その他は墨汁を垂らしたような常闇(とこやみ)が広がる。
頬を凪(な)ぐ風は消え、シンと静まりし木々は何かに怯えているようにすら思える。
知らぬ間に出来る限り吐く息も抑えようとしている自分がいた。
見上げる夜空には星一つない曇天(どんてん)模様である有様で、なんの助けにもならない。

風巻御津雄(かざまきみつお)は、変わり者であった。
いや、変わり者と呼ぶには、他の変人に失礼かもしれない。
容貌だけ見れば器量よしの女子の1人や2人寄ってくるであろうと見える。
風巻の行動原理は、知的好奇心を満たすための面白い事であればなんであれ。
北に病人があれば、病気の種類や症状を直接聞きに行き、
西に金貸しに困っている者があれば、殴られるまでどうしてそうなったのか聞く。
南に怪異(かいい)ありと聞けば、幼子(おさなご)まで巻き込んで泣くまで連れ回し、
東に結納ありと聞けば、夫婦間に遺恨を残すほど調べ尽くす。
そして、得た経験を自分の創作に活かすのだ。
人を人と思わぬ態度に周りのものはやっかんだが、風巻は気にせぬ。
今回も知的好奇心が先行し、こうなったが風巻は気にせぬ。

登り続けた舗装されていない山道の横目に小屋が現れた。
おや、危ない、素通りしてしまったという焦りとともに風巻は安堵を覚えた。
「もし、そりゃあなんぞや?」
急な言葉にさすがの風巻も息を呑んだ。
咄嗟に行灯をそちらへ向けると、目の前に人影が浮かび上がり、
ひっと女子(おなご)のような情けない小さな悲鳴を上げてしまう。
人影の形を認識できると、正体はどこかの童子(わらし)のようだ。
歳は十(とお)も行かないぐらいだろうか。
見た目は娘に見えるが、体中土まみれで汚れているため、
本当のところはわからない。
恐らく結ってたであろう長く癖のついた髪は軽く梳(くしけず)ってあり、
虫が住まないよう気をつけているのだろうか。
数週間なのか数カ月なのかはわからないが、明らかにこの山に住んでいるようだ。
少し前は、不作であると食い扶持減らしのために山へ子捨てを行うと
聞いたことはあったが、、、
「そりゃなんぞ?」
返事がないことに不満だったのかは無機質で掴めないが、童子は急かしてきた。
言われて気づいたのだが、右手の中指だけ申し訳なさげに突き出して風巻の左肩を指している。
「、、、あ、ああ」
行灯を地面に置き、左肩に掛けた風呂敷包みを開ける。
「切り絵だ。知っとるかの?」
そう言いながら立派な額縁に入った彩り鮮やかな切り絵を見せた。
それまでは無表情であった童子も、ぱっと表情を変え、繁々と眺め始めた。
ふと寒気を覚えた風巻は、
---風邪をひいちゃあならん
と、山小屋の中に入らないかと提案していた。

小屋の中は狭く、年季が入っていた。
豆電球は付くが、窓もなく出入りは扉だけ、とても小さな机が寒そうに置かれる他は、
隅には寝袋などの必要品が雑多に置かれている。
あまり使われている形跡もないが、童子は使わないのだろうか。
風呂敷を広げてその上に見えるように切り絵を置き、行灯の燃料や必要なものを探す。
探しながら、名前やなぜここにいるのか、親は、といった質問を投げかけるが、
切り絵を一転に見つめるばかりだ。
こちらの質問には答えず、こらあ大層なもんだと眉間に皺をよせながら、
「どう切る?」
「どういう絵なのじゃ?」
「この獣はなんじゃ?」
「なぜ人は赤い?」
「この村は?」
「お天道様が出てるのに夜なのか?」
「ここは和紙じゃないのか?」
と質問ばかりしてくる。
最初は鬱陶しく思えたが、創作活動について語る機会の少ない風巻の舌は次第に乗ってきた。
童子はふんふんと聞いては次の質問をしてはふんふんと聞くことを繰り返している。
唯一依頼されて作成した、若くして結婚相手も見つけられずに死んでしまった息子のため、
幸せに送り出したいという願いから祝儀絵を作成したという話をしていると、
童子がじっと扉を見ていることに気が付いた。
商売道具を弄びながら捲くし立てるのをやめ、どうした、と問うが一向に目を離さない。
つられて扉を見るが何も変わった様子はない。
話に飽きてしまったのか、変わった奴だと思いながら仮眠の寝支度とその後の準備を始めた。
寅の刻に入る前までには全て終えてしまいたい。
---明日、降りたら駐在さんに話しておくかの
少し寝ることを童子に伝えると風巻は床に入る。
一向に動かない童子は少しなにかを呟いたようだが、風巻には聞こえなかった。

あれからそれほど時は経っていないと思うが、ぎっ、、、と音がし、童子が動いた気配があった。
出ていくつもりなら何とか止めなければなるまい、と思い、目を凝らす。
サワ、サワと音がする。
何の音だ、と扉の方に目を向けると、若草色の塊が見えた。
童子はそれをぼうっと眺めていた。
三尺はあると思われる若草色の塊は、呼吸をしているように見えた。
何かわからない、何かはわからないが、動いてはいけないと本能が耳元で囁いてくる。
蛇に睨まれた蛙という状況はこういった状況をさすのだろうか。
じわと背中に冷たさを感じながらよくよく眺めてみると、なんだか見覚えがある。
---ああ、そうか切り絵の獣か
思いついてバカバカしいと考え直す。
いや、、、しかし、、、、見紛うはずもないと思えてくるぐらい其れに見えてくる。
若草の獣はこちらの考えを読み取ったかのようにフスと鼻息を鳴らすと、
悠々と踵を返し去って行った。
その後もしばらくは風巻は動けないでいた。
---やはり切り絵の獣だったのだろうか
確かにあの獣は、野兎の皮を裂き、乾かした後で着色して作ったものだ。
こういうことも起こりえるかもしれぬと期待していたのは確かだし、
山寺へ持ち込もうとしたのも眉唾物の噂が絶えなかったからだ。
そう思いハッと広げたままだった切り絵を見ようとあたりを見渡す。
童子が消えていることに気づいて落ち込んだが、まずは切り絵に飛びついた。
裏面で置かれていたように見えたため、ひっくり返したが、こちらが裏面だった。
はて、ともう一度ひっくり返すと、額縁の中はのっぺりと半紙が残るばかりで何もない。
これはどうしたことかと、ふらふらと扉を開ける。
空は真っ黒だった。
雲が線を雑多に書いたように這っている。
大げさな比喩ではなく、和紙そのものに見える。
太陽は赤々と浮かび、木々は浅黄色で統一されている。
遥か先に見える山下の村は青く燃えており、人が暮らせる場所とは思えない。
一間ほど離れた場所にいた真っ赤な背広を着た紳士、
-いや全てが真っ赤なので、紳士かどうか、人間かどうかも分からない-
が、やぁと声をかけてきたところで一陣の風が吹いた。
その瞬間、まるで絵具を真水に溶かしたようにすべてが元通りに戻って行った。
あたりは元の静寂と常闇になったが、風巻は満足だった。
一つ残念だったのは、新しい創作素材を手に入れ損ねたことだろうか。
額縁を跡形もなく燃やした後、風呂敷に大きな鋏だけしまうと山を降りて行った。